#1:祖父の死

ブルーグラスに出会った高校3年のときに経験した、祖父の死は私の人生に大きな影響を与えました。 徴兵も経験し、昔気質の頑固な祖父ですが、孫にはとても優しく、私も大好きでした。 亡くなる数年前から神経痛の悪化で歩くのも困難になり、祖母が付きっ切りで看病していましたが、祖父は祖母にいつも悪態をついていました。 私はそんな祖父を当時は「情けない」と感じていましたが、今考えれば、若くして体が不自由になり、看病してもらう自分がもどかしく素直になれなかったのでしょう。
高校野球最後の大会が終わってから、勉強の遅れを取り返すために帰宅してから毎日10時間を目標に受験勉強をしました。 当時科目数の多い国立大学を志望していたため、毎日10時間勉強しても1科目に避ける時間は1時間と少々で、みんなに追いつくには1分1秒でも惜しいと感じていました。 そのため、家に私と祖父しかいない日などは、何かあると直ぐ私を呼ぶ祖父をうっとうしく、時には腹立たしくも感じました。 
 秋頃だったか祖父がいつになく頻繁に私を呼んだことがあります。 その日はどうしても勉強に集中したい気持ちがあり、無視して勉強を続けました。 一段落して二階の部屋から降りると、祖父ががっくりしてベットに座っているのが見えました。  私が無視し続けた結果、トイレに間に合わなかったのです。  そのとき初めて、本当に祖父は歩行するのも困難なんだと気付きました。 申し訳なくも感じましたが、受験という目標達成のためには、気にしている余裕もなく、一つの出来事として時が過ぎました。 今振り返れば、その頃から、祖父がこっそり、医者から止められている味の濃い食事を食べるのを目撃するようになったきがします。
受験シーズンが本格化するころ雪が降りまた。 その日は朝から祖父の姿が見えず家族も大変慌てました。 家族の心配をよそに、数時間後、祖父はすっきりした髪型で自転車に乗って帰ってきました。 歩くのも困難なのに雪の中を自転車に乗って。 祖父は皆が叱るのを笑いながら聞いていたのを覚えています。 いつに無くとても穏やかな表情だった気がします。 二日後の共通一次試験の日の朝、祖父は風邪を拗らし、試験に出かけようとする私に、弱い声で「直樹、起こしてくれないか」とささやきました。 私は障子越しに、「帰ってきたら起こすからね」と言って祖母にその役を頼みました。 それが結局私が交わした祖父との最後の会話です。
死ぬ前日の夜中、祖父は自分の子供達を病院へ呼び集めしっかりとした口調で一人ひとりに声をかけ、最後に祖母に優しい声で「今まで、すまなかったな。ありがとう」とお礼を言って、祖母の腕の中で朝方亡くなったそうです。 医者もこのような死に方を見たことがないというほど、ドラマのような劇的な亡くなり方だったそうです。 共通一次試験の二日後でした。 祖父と言っても当時61歳、誰も死ぬとは思っていませんでした。 祭壇に横たわる祖父は、数日前に散髪も済ませてとても若々しい表情でした。 頑固な祖父は、看病されるのが苦痛だったのでしょう。 トイレに間に合わなかったことも屈辱だったでしょう。 早く死ぬことですべてから開放されると感じたに違ありません。 医者に止められてる食事を多く取ることで人生を早く終えられると感じたのかもしれません。 いろいろなことが頭をめぐり、枯れることもなく涙が溢れました
四十九日の法要が過ぎたときには受験シーズンも終わっていました。 その後の浪人生活は、何の目標も持てませんでした。ただ毎日「人の優しさとは何か」「生きるとは何か」「人生とは何か」自分に問答をしながら、祖父にわびるつもりで、祖母の傍で手伝いをして1年が過ぎました。 成績もどんどん落ち浪人生としては最低だったかもしれませんが、今の人生に大きく影響した1年であったことは間違いありません。
 亡くなる3ヶ月前、民謡の先生だった祖父が初めて私の歌を褒めてくれたことがあります。 それが今では、自分が音楽を続ける大きな支えになっています。